1

暗闇の中、手品師の手袋のように真っ白な一対の手が、ひらり、ひらりと踊るのを琥珀色のランプが照らしている。
先程から話題をころころと転がしながらも淀むことなく語られる世間話より、私はむしろこの雄弁な手の動きに目を奪われていた。
外はまだ昼間のはずなのに、この喫茶店の中は夜か、或いは深海の底のように思えた。時間が止まっているようだとも。

「ミルクセーキはここのお店の物がいちばん、なんですよ」
右手の指先がグラスに刺さったストローをつまむと、ずずっと音がして水面が下がった。
「一口いかが?」
こちらを向けられたストローに、私は首を振る。あんまり赤い唇だったから口紅でも差しているのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
ストローの頭は白いまま、また赤い口に含まれた。

傘を持つ手が大きいのに白粉を塗ったように真っ白なのと、低くも高くもない声に、お店の人みたいな丁寧な喋り方が珍しくて、幼い子どもの様に誘われるままついてきてしまった。
傘を持たずに途方に暮れていた私に、その人は言ったのだ。
「可愛いおさげの学生さん、今日は学校へ行かずにわたくしと遊びませんか」
こんなにも怪しい誘い文句。
当然訝しんだが、気がついたらこっくりと頷いてしまっていた。
無論、それが愚かな行為である事は分かっている。今まで一度も学校を休んだ事のない私が、平日の朝から女子中学生を遊びに誘うような悪い大人に着いて行くなんて。母親には絶対に秘密にしなければならない事であった。

駅から学校と反対側を進んで、その人は私を連れて小さな古びた喫茶店にやって来た。
扉を開けて「どうぞ」と笑顔で促された時、部屋の中があんまりに暗かったので少し、否、けっこう怖かった。
それでも勇気を出して足を踏み入れてみると、闇の中から珈琲の香りとレコードの音楽、それからさわさわと静かに低く語らう人々の気配が伺えて、どうしてか私にはとても魅力的な場所に思えたのだ。
鈴のついた扉が閉まると、いよいよ私は進むしかなかった。
外から見たよりずっと広く感じたが、それも暗いせいでそう思えるのだろうか、どうか分からない。
足や髪は雨で濡れてしまっていたが、温かい室内で直に乾くだろうと思えた。

給仕にエスコートされて座った席で向き合ったその人は、とても印象的な瞳をしていたはずなのに、私は蝶のように忙しく動く両手と、喋りながら常に笑みの形を固定されている唇ばかりを見ていた。
不安と不思議な心地よさで、私は混乱していた。
「どうして、私を連れてきたんですか……」
私が訊ねると、その人はにこにこと笑って、秘密を打ち明けるように囁く。
「見てください。あなたの頼んだすみれの炭酸水、きらきらと煌めいて大変うつくしいですよ」
見れば、私のソーダはランプの輝きを受け光る水晶のようになっており、その中では気泡が生まれては弾けて消えてを絶えず繰り返していた。
けれども肝心の質問には答えがない。
その人はいつの間にか取り出した紙の包み紙から小さな金平糖を取り出してソーダの中にざらざらと入れた。金平糖は紫色の底に沈み、更に細かい気泡を生んだ。
「あなたは誰ですか」
「名前なら齋藤と申します」
「サイトウ、さん」
「ウフフ」
本当の名前かも怪しい。
齋藤さんがにこにこソーダを眺めていたので、私もソーダを眺める。
すると、白い手が私の耳を覆うように近づいてきて、三つ編みを縛っていたリボンをひゅっと引っ張って去っていった。
途端に片方の三つ編みが解けてしまう。
「失敬。リボンがついていて贈り物みたいだったので解いてみました」
そんな言い訳にもならない事を言いながら長い指がリボンを弄んでいるので、私は仕方なくもうひとつの三つ編みもほどいて、全部の髪をひとつにまとめた。この人になら、リボンをひとつくらいあげてもいいかな、と思ったからだ。
「そうだそうだ。わたくしったら、ついつい詰まらない話ばかりをしてしまって。口から真っ先に生まれてきただなんて、良く身内からは言われるんですよ」
すみれのソーダは、美しいし良い香りがするが、口にすると匂いが強すぎる。
私はソーダを観賞用に留めることにする。
「今度はお嬢さんのお話が聞きたいです。学校は楽しいですか」
「楽し、……くはない」
「おや?」
齋藤さんは何故、というように首を傾げた。
そのまま勢い付いてごろりと頭が取れてしまいそうな違和感のある動作だった。
「楽しくも、苦痛もない。ただ、時間が過ぎてやる事やってるだけだから」
「お仕事みたいですねえ」
それは少し嘘だった。
本当はいつも少しだけ苦痛だった。
「でもほら、お友だちがいたりして」
「いない」
私は断固とした口調で、素早く言い放つ。
友だちだと、言いたかった人はいた。
でも、私には色々なものが足りなかったのだ。
「では本日最初のお友だちはわたくしですね」
「おともだち……」
暗闇の中で左と右の手が、人間のように人差し指と中指で仲良く歩く。
「勿論あなたさえ嫌でなければですけれど」
手に気を取られていたら、いつの間にかテーブルの向こうでミルクセーキを飲んでいるのは、私と同じくらいの女の子になっていた。
「嫌じゃ、ないけど」
肩までに伸びた髪の一房に先ほどのリボンが結ばれている。私と同じ制服を着ていて、白い肌と赤い口は相変わらずだが、その組織は、私たち女の子と同じ素材でできていた。
触れても汚れない。壊れない。
その手で、齋藤さんは私の手を握った。
「ああ、良かった嬉しいです。何をして遊びます?あやとり?鬼ごっこ?」
私は触れられた場所をじっとみる。
「お葬式をしたい」
「え?」
「私のお葬式をしたい」
気が付いたらそう言っていた。
相手の驚いた顔を想像して顔を上げたが、齋藤さんの口は相変わらず笑っていた。
「お葬式ですか」
「驚かないの」
「色々なお客さまがおりますもの」
「お客さま?」
「それよりどんなお葬式にするかですよ」
最もだと思う。
私は制服の下につけていたペンダントを取りだした。
「これみたいになりたいの」
それは一見すると小さな氷の塊のようで、中にはドライフラワーが封じ込められている。
実際には透明な樹脂でできていて、軽く、冷たくもない。
「綺麗ですねえ」
「固定するの。標本みたいに」
「固定」
「これ以上悲しい気持ちにならないように。今までの気持ちを忘れてしまわないように。いつか自分の汚なさに慣れてしまう日が来る前に、固定をするの。私の、お葬式を一緒にしてほしいの」
捲し立てるような私の言葉を小首を傾げて聞いていた齋藤さんは、恭しく椅子から立ち上がってお辞儀する。
「かしこまりました。お客さま、それでは早速わたくしの遊園地へと参りましょう」
そしてすぐに少女の顔に戻ってにこっと笑った。
「ほら、ちょうど雨も止んだようですしね」
か弱い指がブラインドをめくって見せる。そこだけペンキを剥がしたように昼の色をしていた。





2

齋藤さんは私と手を繋いで、どんどんと町から離れていった。
周りを木に覆われた石だらけの山道を、革のシューズで歩いて行くのはとても疲れる。しかし、齋藤さんが立ち止まらずにずん、ずん、と歩いていくので、私も引っ張られるようにして、何も言わずについていった。きっと足の先から血が滲んでいるけれども。
やがて山道は古びた鉄の門に行き当たる。
何か大きな施設の入り口である事は分かったが、門は片方大きくひしゃげて、もはや廃墟のようにみえた。柵には蔦が巻きついている。
入り口の隅にはパイプ椅子があり、そこには青年がひとり門の向こうに顔を向けて座っていた。
彼は私たちに気付くと、無表情にこちらを向いて立ち上がった。

「ようこそ廢園地へ。本日は特別招待のお客様でよろしいでしょうか」

声は丁寧でやわらかかったが、表情は変わらなかった。
私が戸惑っていると、いつの間にか後ろに回っていた齋藤さんが私の肩に手を乗せてそれに答える。

「本日は貸し切り。みんなで彼女のお葬式を致しましょう。生涯で一度きりの晴れ舞台です。素敵な式にしましょうねえ」
「かしこまりました。すぐにご用意を」

青年がこじ開けてくれた門から、私たちは廢園地の中へ入っていく。
齋藤さんは楽しくてたまらないというように、時折くすくす笑いをこぼしている。
よくよく見れば、朽ちた動物の像や案内板が草むらに埋もれており、辛うじてそこが遊園地であった名残が伺える。
ああ、どうして私はこんな場所にいるのだろう。私がお葬式をしたいなんて言ったからだ。でも普通、葬式は寺や協会でするものではないだろうか。
そんな事を考えていると、齋藤さんが振り返った。

「お葬式って様々な意味がありますけれど、わたくしたちのこれは祝福ですよね」
「ええ……」
「あなたに会えなくなってしまうのは本当に寂しくてならないですが、あなたがきちんとお綺麗に埋葬される事が何より幸せで嬉しいです」

微笑んだ齋藤さんの後ろから、幾人もの動物の着ぐるみと、私たちと同じ制服の少女たちがやってきた。
少女たちはわっと叫んで私を囲んだが、彼女たちの顔は丸く塗り潰されていた。
着ぐるみはどれもくたびれていて、触れられると表面がざらざらと痛かったし、そのそばから表層が剥がれて行った。

「さ、皆さん!式の前にお祝いですよ」

やんややんやと囃し立てられながら入ったのは、フードコートに使われていたらしいドーム状の建物だった。
カレーだとかうどんだとか書いてあるカウンターも、当時使われていたらしい空のカートも、使用感があるだけに返って寂しい。
広場の机と椅子も残っていて乱雑に置かれているが、埃を被っていたり、脚が欠けていたりする。
彼らは転がった椅子の中からマシな物を選んで座った。仕方なく私も同様に椅子の一つに埃を払って座る。エプロンをつけた着ぐるみがケーキを配っていたが、そのエキセントリックな色味に加えてよく見ると埃が付着しており、とても口にする気にならなかった。周りに蝿も飛んでいる。
ふと見ると、壁の一角は小さなステージになっており、齋藤さんはそこでマイクを持って立っていた。
『えー、今から、本日の主役である、これからお亡くなりになる◯◯さんの生涯を振り返っていきたいと思います。皆さん拍手をどうぞ』
惜しみない拍手が送られ、齋藤さんはそれを抑える動作をした。
静かになると、マスコットたちがやってきてよいしょよいしょと白い緞帳を下ろした。
ところどころ破けたそれが最後まで降ろされると、部屋が暗くなる。カーテンが閉められたのだ。

【◯◯の生涯】

幕の中央に悪趣味な文字でそう描かれる。
それが終わると、感傷的なピアノ曲と共に映像が流れ始めた。
それは、私の記憶だった。

祖母と一緒に風通しの良い廊下で寝転びながら絵本を読んでもらったこと。
外国へ行っていたおじさんがくれたフランス人形が怖くて、でも言い出せなくて私の部屋に置かれてしまったこと。
草むらで瑞々しいバッタを捕まえたこと。
幼稚園の先生に褒めてもらったこと。
仲良くしていた友だちが、私のあげた誕生日プレゼントがセンスがないと人に言っているのを聞いてしまったこと。
初めて見る虫を人に見せようと捕まえたら、脚が取れてしまったこと。
道端で見た猫の死骸。
鼻の形が変だと笑われて、嫌だったのに愛想笑いで済ませたこと。
体育で自分含め三人しか逆上がりができなかったこと。
好きだった曲か批判されているのを見て、急に好きじゃなくなってしまったこと。
うっかり腐ったジュースに口をつけてしまったこと。
友だちが勇気を出して打ち明けてくれた事を、軽んじた言動で流してしまったこと。
鉄棒で口を打った感覚。
本屋で男の人に身体を触られたこと。
いつの間にかバッタを捕まえるのが怖くなっていたこと。
他人の事や物を分かったように馬鹿にする高揚感。
常に人に評価を下され続ける恐れ。
教室で私だけが立たされ、みんなの視線が私に注目している。身体中が神経になったような感覚。何か私が愚かな事を言って、教室中が爆笑し、呆れ、お調子者がさらにそれを煽り、私は罪人のように首を竦める。
そして次の瞬間、あっという間に私への関心はなくなり、そこには私の羞恥心だけが残った。
インスタントな悪意。
糖衣に隠され、本人すら気付かない。或いは、開き直って押し付けられる、その面の皮の厚さ。



気が付いたら嘔吐していた。
もう一刻も耐えきれないのに、目が瞬きを忘れたようにスクリーンを見続けていた。
これが私の世界。
これが私の生涯。
思い出として語れば大したことがないはずなのに、こうして見るとあまりに生々しい。
こんな物を固定する価値があるだろうか。
苦しかった。
吐瀉物にまみれた私の周りで、みんなが拍手をしている。動画が終わったのだ。
あたかも感動する映画を見たようなスタンディングオベーション。耳が痛い。
部屋が明るくなり、齋藤さんが再びステージにやってきた。
『大変良い余興となりましたようで、何より』
笑みを深くする。
『それではこれから式の準備に移りたいと思います。各自持ち場で故人を悼む用意を致しましょう』
そのアナウンスで、少女とマスコットたちは揃って何処かへ消えて行った。





3

「制服が汚れてしまいましたね。あちらで着替えましょう」

涙と鼻水を垂らした私の顔をハンカチで拭くと、齋藤さんはフードコートの中にある目立たない扉の中に私を連れて行った。
そこはステージに上がる人が使う控え室のようなものらしく、珍妙な色の衣装がハンガーラックにぎっしり掛けられていた。
「こっちですよ」
衝立を挟んで向こう側から呼ばれる。
その中を見て、私は少しびっくりした。
達磨さんが転んだでもしているかのように、マネキンが狭い通路の中のあちこちでポーズを取っていたのだ。
「せっかくですから、お好きなお洋服を着てください。いくらでも試着して構いませんからね」
齋藤さんが部屋から出て行くと、急に静かになる。
私はなるべくマネキンを倒さないように苦心し隙間を通って進み、自分と同じくらいの高さのマネキンまで辿り着くと、その子が着ていた服を、腕や脚を外しながら脱がした。
それは私の好きな漫画や映画に出てくるような、上等でフリルのついた黒いワンピースだった。ゆったりとしたベロア生地が、動くたびに粉砂糖をまぶした様にきらめく。
私がワンピースを着て部屋から出ると齋藤さんは頷いた。
「大変お似合いです」
私は齋藤さんの格好を見て、そういえば私たちが葬式に出るときは制服だったな、と思う。
未だ薄く映るスクリーンには、相変わらず半目になって下卑た笑いを浮かべる私が映っていた。再び胸から込み上げるものを我慢した。今この服を汚してしまっては台無しだ。
「さ、行きましょう」
私たちの靴の音が高く響き渡った。

私たちは回転木馬の前にいた。
たまに木々の合間から誰も乗っていないアヒルの乗り物がゆっくりと走っているのが見える。
回転木馬の前には錆びた券売所とポップコーンの売店、それからささやかなお花畑がある。
その中で齋藤さんは木の櫛を使い私の髪を梳いてくれていた。
「シロツメクサを編み込んだら素敵と思うのです」
鏡のない私にはどんな髪型になっているのか分からないが、髪を触られるのは心地よかった。
「齋藤さんは手がきれいね」
「たまに取り替えているからですね」
壊れた回転木馬が不協和音で踊るのを見ながら、この人は死神か何かかもしれないと考える。
しかし、もう手遅れだろう。
綺麗な物だけで出来ていたかったけれど、この心や身体はあまりに酸化しやすい。
私の死因は中途半端だ。
今出来ることは、私が、私の意志で醜悪な自分を終わらせることである。
「おや、あちらの準備も出来たみたいですよ」
髪の出来栄えを満足そうに眺めていた齋藤さんが、気付いたように言う。
マスコットたちが棺を抱えて危うい足つきでこちらにやってくるのが見えた。その後ろからは少女たちがそれぞれ一輪ずつ白い花を持って歩いている。
「次は固定の準備を」



私は手術台に寝かされている。
せっかく着たドレスは脱がされ、私は裸だ。
「遊園地に病院があるの不思議でしょう。実はお化け屋敷なのですが、道具は本当に昔病院で使っていたものです」
顔の横で頬杖をついている齋藤さんが話しかけてきたが、私は答えられない。何故なら喉から腹の下まで、ぱっかりと縦に開かれているからだ。メスは錆びついていたので、私はとても苦しんだ。
「我が廢園地にはお化け屋敷が子どもさん向けから怖いもの知らずさんの為のものまで、三つご用意があります。後は別にミラーハウスなどもあって……」
私の内臓はそれぞれ摘出され、洗浄され、固定液につけられている。
「こんなにおもてなしの準備をしているのに、どうしてお客さまはあまり来てくださらないのでしょうね」
それは少しだけ寂しそうな声に聞こえた。
エプロンを着た制服の少女が、固定の終わった内臓を私の身体に戻していく。
きちんと何がどこにあったか描いておいたらしく、少女のひとりが図を見ながら指示をしている。他の少女たちはそれに従いお腹を詰めて、最後に桃色の糸でお腹を縫った。
匂い袋を一緒に入れてくれたので、私の身体からはとても良い匂いがした。
「次は脳味噌を、それから身体を蝋に……」
頭の上でそんな声が聞こえてくる。





4

黒い棺の中は肉厚なシルクで、案外と寝心地がよかった。横たわった私に、少女たちが順番に棺に花を添えてくれる。
不思議と、少女たちの顔は私が今まで関わってきた人たちの顔になっていた。
仲の良かった子、嫌いな子、どうでも良かった子、一度だけ遊んだ子、苦い思い出のある子、色んな子がいるが、みんなそれぞれさよならをして、私の上に花を乗せた。
花は重なると重い。
折れた茎や尖った葉が私の肌を傷付け、蝋付けの皮膚がひび割れたが、私は笑顔を浮かべ続けなければならない。何故ならこれが最後のおわかれなのだから。
おしまいにあの子が来た。
私に樹脂のペンダントをくれたあの子だ。
「さようなら」
手を握りたかったが、私の身体は動かず、黙って笑い続けた。
名残惜しかったが、あの子は笑顔で消えてしまう。
すると、入れ違うようにそっと控えていた齋藤さんがそばに来た。
「全てのお別れが終了しました」
宣告し、白い手が私の瞼に乗せられる。
「おやすみなさいませ」
手が離れると、柔らかい薄い布のようなものを顔にかけられた。
優しい匂いがして、もう目を開けてもぼんやりと白い色しか見えない。
ああ、私はうまく固定されたのだろうか。




天国というのがどういう場所かは分からないが、私はどうやらそこへ来たらしい。
気が付いたら私は枯れた花にまみれて草むらで眠っていて、引き攣れた腹の傷を押さえ蝋だらけの身体で足を引きずるようにして壊れた門をくぐって家へ帰った。
家には誰もいなくて、お母さんやお父さんが過ごしていた形跡だけ残っている。
町にも、誰も、何の動物も、もういなかった。ただ、誰かがいた跡だけがある。


私は家にあった制服に着替えて学校へ行ってみた。
誰もいない学校の廊下は、それだけで知らない場所のようで面白かった。
戯れに彼女の席に座ってみる。
もう誰も私を傷付けられないし、私も誰の事も傷付ける事がない。
そう思ったら、嬉しくて嬉しくてすみれの色の涙が流れた。