この町に唐突に施設が増えることは別段に珍しいことではない。
だから通勤途中のいつも通るトンネルの前に、見慣れぬ煉瓦色のビルヂングがにょっきり生えているのにも、Rはそう驚かなかった。
それでもなんの建物かと気にし始めたのは、そこからたまに風船がふわふわと飛んでいくのを見たからで、快晴の淡い水色の空に可愛い赤や黄色が流れていくのが目に鮮やかで美しかったからだ。

ビルヂングは少し小高い場所にあって、やけに細かい石段を登る間、背の高い木が影になって涼しかった。石段は少し苔むしている。
たどり着いた入り口をみると『こども図書館』と書いてあった。ご丁寧に図書館の文字にルビが振ってあるのを眺めていると、名前の割に自分よりずっと年かさの大人がぱらぱら出てくるので、Rは少し妙に思う。大人の一人は手に風船を持っていて、やはりたまに空に浮かぶ風船はここから配られているようだ。
恐る恐る入ってみると、確かに図書館、なのだが、そこにいるのは子供ばかりだった。
失敗した。
そう考えて戻ろうとすると、入り口のカウンターの中にいた三つ編みの女の子に「入り口を塞がないでください」と叱られて慌てる。
慌てついでに、Rは自分の身体が妙に小さくなっている事に気付いて、軽いパニックになった。
手も足も小さい。服装は先さほどのままだ。
血の気の引いたまま逃げるように走って外へ出るRを「図書館で走らない!」という舌足らずの声が追いかける。
肩で息をしながらトンネルを抜ける頃には大きさが元に戻っている事に安堵した。



「あそこねえ、どういう仕組みか知らねえけどちょっと面白いわな」
やる気のない薬屋、菊叉が勘定台に寝っ転がって最中を食べながら尻をかく。
その横では齋藤がぱらぱらと絵本をめくっていた。
あいも変わらず客の来ない薬局堂である。最近では、顔見知りの集会所と化している。
「あすこの図書館は本棚の角がまあるく削ってあって、流石はこども図書館を名乗るだけありますよ」
「そんな細けえ事によく気付くねぇ」
「わたくしの商売もこどもさんが相手ですからね。いいなあ、あすこは流行っていて。いいなあ」
どうやら二人ともすでに足を運んだ後らしい。それどころか本まで借りてきたらしく、菊叉の足元には児童書が数冊積んであった。
「菊叉さんと齋藤さんもその、小さくなったんですか?」
「そりゃあもう、天草四郎の生まれ変わりと言われた頃のぴかぴかの美少年になってさ。あれは驚いたねえ」
「わたくしも米粒くらいに縮みましたよ」
「そりゃ、戻り過ぎだろ」
二人の呑気なやり取りを聞いて、何事もないならもっと中を見てみれば良かったなあとRは後悔した。
「そう言えばRさんには子供時代もねえんだからさ、あっこで擬似的な子供時代を過ごしてもいいのかもね」
菊叉の言葉に、Rは頷く。
Rは名前泥棒に名前を盗られて以来、自分がどんな人間でどんな人生を送ってきたかも分からなくなってしまったのだ。
そこへ、齋藤が思い出したように言う。
「そう言えば、あすこで借りた本を一冊破いちゃったんですよね」
「おいおい、何やってんの」
「わたくしがじゃないですよ、わたくしのお人形が破いたんです」
齋藤が妙な事を言うのはいつもの事なので、もはや菊叉もRも突っ込みもしない。
「仕方なしにうさぎ饅頭を土産にお詫びに行ったんですが、一冊本を寄付すれば許してもらえるって言われたんです」
「へぇ、そんで?」
「だからその時たまたま持っていた難し〜い外国の本を差し出しましたら、司書さんが奥付に図書館の判子を押されまして、そしたらなんと、挿絵付きの文字の大きな、つまり絵本になっちゃったんですね」
「え、怖いよそれ…」
「わたくしそれが面白くって持ってた本を全部寄付したんです。どの本も見事に可愛い絵本になりまして。ついでに風船も貰えたんですよ」
どうやら風船は本を寄付したご褒美だったようだ。
大人が子どもになって絵本を借りたり寄贈したりする。それには何か、ごっこ遊びめいた楽しさがあった。
特に普通の図書館とやっている事は変わらないと分かると、さっそくRはその帰りにまたこども図書館に寄ってみることにした。


本当の子どもか、はたまた子どもになった大人か。一見すると分からないが、時折八百屋の前掛けをした子どもやスーツを着て頭を撫で付けた子どもなんかもいて、各々真剣に絵本を選っているのが少し可笑しい。
子供時代のなくなってしまったRにとって、児童書は初めて触れるに変わりなく、気持ちまで幼くなったのか、気が付いたら借りたい本を何冊も抱えていた。
少しは減らそうとその場で読むことにすると、唐突に持っていた本を横からひょいっと取られてしまった。
「これ、僕が読もうと思ってたやつ!!」
甲高い粗野な声。
Rよりも頭ひとつ分背の高いその少年は、そう叫ぶが早いかRを片手で突き飛ばした。持っていた本が散らばり、Rは驚いて少年を見上げる。
「これもそれも、僕が読みたかったやつ!」
大人しく本を読んでいた子どもたちも、何ごとかとこちらを見ているようだ。Rは刺すような視線に居心地が悪くなる。
「ぼ……僕がえらんだ本だよ……」
それでも弱々しく反論すると、少年はさらに眦を上げて「生意気なやつ!」と拳を振り上げた。思わず顔をかばう。

「図書館で暴れないでください」

少年のものではない声だった。
見れば、カウンターの中にいた三つ編みの少女が後ろから少年の肩を掴んでいる。
少年は尚も不満を漏らしたが、少女は有無を言わさぬ視線でそれを封じる。そしてそのまま、少年をどこかへ連れて行ってしまった。
再び図書館に静寂が戻る。
Rは落ちた本を拾いながら、少女と少年がどこへ行ってしまったのか、彼らが消えた方角を眺めてみたが、そこには小さな鉄の扉があるだけなのだった。


絵本や児童書の中には、たわいもない言葉遊びや子供らを惹きつける魅力的な絵なんかとはまた別に、大人が読んでもしみじみと良い物がある。
最初は子どもになる感覚を楽しみに図書館へ行ったのだが、子ども向けの書籍が無尽蔵に置かれるあの図書館が、本来の意味で気に入り始めていた。
その日、美味い珈琲を飲みながら借りた絵本を読もうかと青猫喫茶室の硝子扉を開けたRは、いつもと違うテノールに来店を歓迎される。
カウンターの向こう、首から上しか見えない前髪の長い少年が、「久しぶりじゃない?いつものでいいかな」と、やけに馴れ馴れしく話しかけてきた。
解せぬ気持ちで窓際の二人がけの席に腰掛けると、水を運んできた少年は、Rの持っている本を見て、にやにやと笑う。
「Rさんもそこ行ってるんだね。僕もそこ気に入ってるんだけど、この前酷い目に遭ったよ」
少年はシャツの腕をまくってみせる。
生っ白い細腕が露わになった。
そしてそこには、絵本と同じように図書館の判がくっきりと押されていた。